20220201

雲を産む

どうやら今日は旧正月のようだ。友人に送る小包を胸に、近所の郵便局まで出かけたら開いていない。家に戻る気持ちにもならず、足がむずむずする。きっと歩いていたいのだ。包みは抱いたままに、大山川の周りを散歩することにした。

マスクもういらんとポッケにしまい、曇りの下の田舎道を行く。遠くの山、看板、家、植物の鑑賞。熟した柿の朱色のまるが黒々した枝にぼちぼち垂れ下がる。冬は命の気配が静かで、緑も少ない。誰もいないのに、小包の宛名が丸見えにならないか気になる。歩いていると考え事がいろいろ起こって、出しっぱなしの蛇口からいろんな色の色水が次々流れるみたいな感じ。脈絡なく一斉に浮かぶ思考が心地よかったり気持ち悪かったりする。

20分ほど歩くと、散歩の折り返し地点まできた。ここには橋がかかっていて、中程のところで止まりそこから川を覗き込んでぼーっとするのが好きである。白いしぶき、水のつくるいろんな線、鳥が見える。見えんけどおるかもしれん魚も想像する。今日は小包にも、川の様子をみてもらう。落っことさないよう指先に注意しながら。

定住者ではなくやや転勤族の自分はいつも秋から冬にかけての時期、次の春は一体どこにおるんだろうと考えている。寂しく思われる年もあったが、昨年ごろより感覚はゴム手袋っぽく変化した。感じる心がどんどん無神経に麻痺しているんだろうか。てのひらに小さく足場のできたような安堵もある。
わたし、はいおしまいです、で、明日別の土地にいても大丈夫だなあと、5mほどしたの川に呼びかける。(川面からは遠いのに、自分の声が耳まで届かないくらい水音がごうごう喋る。)次第に溶け出すのは、いつものひとたち、いつもの町の輪郭…

ねえ、それ
わたくしが今ここから川に落っこちて人間の形でなくなることと一体何が違うんだろう。
「予感」の有無ではなかろうか、と手元の小包が控えめな声で返事した。