20221202

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E F# E D H D E F# E D H F#…

ガムランと般若心経の音楽

アクロスの円形劇場の舞台はぐるりと囲む客席の中央にある。さらに内向きに配置されたガムラン、光を極力おとした青い照明。ガムランを音源で聞いたことは何度もあるが、生の演奏は初めてで、視覚的にもおもしろい。お友達の家の円形の畑を思い出したり、沖縄民謡の音律を連想したり。

今日の公演は、数日間博多で行われたガムラン・フェスティバルのなかのひとつ。作曲家・藤枝守さんの企画で、ご自身による進行でコンサートは進む。藤枝さんの手法はちょっと特殊で、植物のいろいろを数値化して音楽にする、というやり方で作曲されているのだそう。今日の演目については、あるとき「般若心経の訳を書いたが、曲にならないか」と相談を受け、自分の曲に組み合わせたところ、思いの外とても合い、こうしてこの作品が実現したのです、と仰っていた。

その後あらわれたお坊さんによる解説によると、般若心経というのは、「悟りを開き苦しみから逃れるための知恵を授けますよ」というエッセンスを抽出したお経のことらしい。あらゆることは関係性の上ではじめて成り立つため、すべては実態のないもの、だから苦しむこともないよ、ざっくり言えばこのような内容なのだとか。
「ない」ということをひたすら唱え、羯諦羯諦、とサンスクリット語の呪文に結ばれる般若心経。そのすぐ下で弦楽・ガムランの音楽が同じフレーズを軸にしてぐるぐるぐるとまわる。仄暗い円形劇場の客席には、見守るわたしたち。いつか医師・稲葉俊郎さんの本の中で、インドの意識の層(レイヤー)の概念である『唯識』の、末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)について書いてあるところを読んで急に気分が悪くなってしまったことを思い出した。まるで、自分の中に、巨大なしらない顔がいることに気づいたような。今日もそのとき感じたときと同じ、禁忌を示すブザーが頭の中で鳴っている。客席のなか無数にマスクの白だけがボウッと浮かぶさまは、コンサートというよりも儀式を体験しているようだった。

美しくもぞっとする時間を過ごしたお席は偶然にも知人の隣だった。
コンサートには仕事終わりに一人で行ったのだが、「満席なので詰めてください、あなたはこちらに」と案内された席の隣にはダンサーのそらさんが座っていて、あとでもう片方の隣はなんとこの公演を紹介してくださったヘアーサロン・アマミズの雨水さんがやってきたのだった。ふたりともそんなに言葉をかわしたことがないのに、なんだか自然であたたかなおねえさんとおにいさん。もちろん演奏中は静かにしているけれど、気配に不思議と安心し癒されていたのだった。

こんな偶然ならいつでもうれしい
冒頭のふしを頭のなかで反芻しながら
西鉄へとのる

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感染症対策の批判ではないが、

こうしたコンサートの折り、常にマスクをしたまま存在しなければならないのがだいぶ苦しい。このような演目はかなり注意を払って自分の持つ五感・あるいは第六感のような場所をつかうが、開放・もしくは着脱自由としてほしいなと思う。もちろん状況から不可能なので、わたしは手のひらを開放して聴くことにした。手のひらは、舌や鼻と似た性質があると思っていて、わたしはここで呼吸のような作用(気の出入り)をしたり、温度や匂い(湿度?)もたしかめたりしている。
当然ながら鼻にも舌にも代わることはできないけれど