20240930
コラムが書けない月末
書きたいことはあるのだが、ちょっと膨らみすぎな気もし、どれかに絞るか、うまいことかいつまんでもつべきかかんがえあぐねている。
先週すこしだけ地元に帰ったときのことを思い出している。夜岡山にたどり着いたわたしは、奉還町をぶらぶらしながら高校の頃のことを回想していたのだった。そこは表現者たちの卵を育てる学級であり、まったく気の合わない人がいて、気の合うけど遠い星の人もいたりした。まったく違う感受性で同じものを観察して別の言語で自由に話してよい旧友に、昨年秋会いに行ったことも思い出していた。違う星の生き物なのに尊重し合える人が存在するとはとても勇気の得られることだ。
選んだことと選べなかったこと
なかったことになんてならないけれど、感情がある程度ほどけ滲んでまちの気配だけが化石のように自分のなかに残ったことはラッキーだと思う。その後、九州や現在地の強烈な気配に全身全霊で取り組めるのは、望む望まないにかかわらず、瀬戸内のおだやかな下地がわたしに内包されつづけているからだとも。これまでみてきたものや歩いてきたことと、いまを足し引きして手元に残った印象を音や光のスケッチを放出していて、こんにちの自分の輪郭や思考回路がかたちづくられている。このラフなスケッチが、生きるたびに仮説として溜まってきているのだった。
こんな簡単なことがコラムに起こせないでいて、ありありとした実感なのに、文章にすると何を書いて何を書かないべきかまだ難しい感じがする。続きものとして、前半と後半をそれぞれ接続の形にむすんでつくりたい欲望があるからだと思う。