20230315

haru-no-ame

20230315

帰って練習しようと思っていたのに帰宅直後、敷きっぱなしの布団に潜り込んだら眠ってしまったみたいだった。目を覚ますと22時がもう近くて、さすがに楽器を練習するのは憚られ断念。散らかった部屋、溜まった洗濯物、もうずっと手をつけていない絵とかのことを考えてみている。

布団を仕舞って簡単に片付けたあと、お風呂に向かった。さっぱりしたら洗濯機を回す。この深夜は気温も穏やかでいい感じ。せっかくなので、自分の整理整頓に過ごしてみるのがよさそう。冷蔵庫に牛乳あるんで、チャイを淹れよう。火をいちばん落としてじっくり茶葉を煮ている間、1/3くらいで止まっていた西平直著の「世阿弥の稽古哲学」をめくった。文章を素直にスルスル読むというより、派生する感覚を並べ見渡し・連想しながら読み進める。能と音楽、分野は違えどわたしが勉強してきたのはクラシック音楽なので、稽古の感覚が肌でわかる。無意識に身体が動くよう稽古をすること。練習は覚えるために、稽古は忘れるためにするという一節が目に止まった。

さて、当ホームページの名前は「ねじれの日」という。ホームページにタイトルなんてなくたっていいのだけれど、決めた日もあってそのときのことを覚えている。ただ覚えているだけで理由はなく、きっかけになった出来事だけがあって、それでほとんど勢いで決めたのだった。その当時はわからなかったが、タイトルに据えることで「ねじれ」という言葉の響きは苗木となり、わたしの内部に植えられた。それから1年半くらい経ってホームページができ、馴染むか不安に思いながらも空っぽのサイトに用意した名前をつけた。以降さまざまな文章や発想に触れたとき、ここが肝だなと感じる場面に不思議と「ねじれ」という言葉に出くわすことが増えたように思う。

チャイをすする。画用紙を切り取ってクレパスで絵を描き始めた。色を載せるとき、ぱぱぱと点で描いて白でふくふく滲ませて、もっと見たいとおもったところでまた足す。何を描こうとしているかより、どんなものが見えてきそうかたずね呼ばれ手招かれながら、色と圧と配置で受け答えしている感じがする。

内側から湧き出る勢いを促す水路をつくる行いが稽古なんだとか。今晩、世阿弥の稽古哲学とわたくしのねじれの木はよく共鳴する。共鳴するのに上手に言語変換できず無関係みたいで、それがもどかしい。わたしのそばではホルンが無音でじっとしている。