20240619

20240619

酔っ払って障子紙を破壊してしまったらしい。

破れてびりびりになった障子が室内にあるのは落ち着かないもので

そそくさと検索すると、そう難しくないようだった。

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先日研修で、とらおさんによる「事業を評価する」というテーマの講義を受けた。文化のプロジェクトは形のないものや、お金にならないこと、何世代もの時間を培わないと見えてこないことも多く、なかったことにされやすかったり、そもそもの効果を短期的に追うのが難しい一面がある。評価するということは、価値を置いておくこと。記録して堆積した推移を測るようなことだ。講座中に用いられた「事業評価というのは、事業を終わらせるためのものだ」というひとふしも受講生たちには響いた。きちんと見送れるための成熟がそこにあるかという問いに応えうる材料になるのが「評価」なのだった。

まちのN交響楽団の大型プロジェクトの立役者であるYさんと一緒に講座を受けた。わたしにとって、彼女の言葉をすぐ近くで聴く初めての機会でもあった。楽団の立ち上げ、国際音楽祭のこと、新しい会館の誕生とともにプロジェクトを終わらせるお話。わたしには、自分の無邪気な無知をひたすら恥じる感覚もあった。大きな組織の話ばかりを見ていては、この地のあたらしい箱で企画を立てる上で、重要なことを見逃すとつよく感じた。評価すること・価値を残して共有できるような仕掛けをつくること。そして、それらを土としあたらしい提案を生むこと。自分の取り組むべきことだとわかった。

何年もかかるだろう企画を書けそうな、いや書くべきだと実感すると、すさまじい高揚と重圧に潰されるような心地がする。強烈な「わかる」感覚と伝えるための言葉の遠さの落差、また、大きすぎて本当に進めて良いのか・どう進めたらいいのか戸惑っていることなどがその要因だと思う。かつて土地の気配に潰されそうになりながら、ある企画書を書き進めたことがあった。あのときの感覚がまた近い。重苦しい倦怠感のなかに、自分にできることがおいしい境遇だと僅かに光るのも似ている。

「失敗したとしても一点で見ず、時間の経過としてくるんで観測することが大事なのではないか。折れたあとに予想もつかない素晴らしい事件がおこることもよくある」との話題でYさんと共鳴した体験も印象深い。これには、なんだか救いのような気持ちになる。