九州大学・長津さんの研究室にて
1時間の訪問のうちに起こる宇宙、あたらしい感覚の芽生える部屋。わたしたちにまずはじめに「いらっしゃい」と喋ったのは小さな小さなタブラだった。「ね、これかわいいでしょ」ぽんぽんぽんと小気味の良い高い音に迎えられながら。
芸術工学という学問がある、とちゃんと認識する体験。音響の設計について学ぶひとたちの通うキャンパスへと足を運んだ。就職以降はこの世に生まれなおすような日々を送っている私。同じ音楽という土の中で生きながら、長く過ごした「演奏家になりたい」と熱く切に願う人たちの学舎とは対をなすようだと感じることが多々ある。今日見たものも、ひんやりと静謐な、どこまでも俯瞰の研究者たちの世界線だった。オノマトペと聴覚の話、グルーヴの話、ろうあ者のための音楽の話、後進をそだてる話、ブラックユーモアと劇場ごっこの話…
「誰もが自由に自分らしく生きやすい世界を」と、幾らでもそれらしいことが言えるけれど、わたしたちは実のところ、本物に手をのばしたい、善人の顔をしたまがいものを注意深く拒みたい、と考えているんじゃないかと思う。
私たちの仕事(労働の限りでなく)は、希望を産んでいくことだと確信しているが、痛みなしには歩けない道だなと感じる。ひりひりする感覚がずっとあって、「美しい」ととっさに出た一言が、刃物のようであったり、ひとの日常を踏みにじるようなずるい姿だったりすることについて、今日のやりとりを反芻しながら考える。
ああ、失敗したなと感じて、そのあとまた交流をつづける。痛い!とか違ったとか恥ずかしい、ばつがわるいと感じたあとに、安心してよりふさわしい形を模索するための場をつくること。ひとさまに踊っていただくにはまず自分が食べてみないことには始まらず、たとえば鮮やかな地雷の畑を裸足で駆けるように感じられても、恥の体験がわたしをつくると思う
魂のうつわが試されている30代
まとまらないけれど、ほんとうにいろんなこと感じました
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ふと、大分県立美術館OPAMの館長でいらっしゃる新見隆さんの「明日のためのその1」という一節を思い出したので転載します。
明日のためのその1
芸術を学び、それを実践するとは、どういうことなのだろう?
文化を学び、それを実践するとは、いったいどういうことなのだろう?
いったい芸術や文化は、この世のどこにあるのか?
ミュージアムやコンサート・ホールへ行けばそれが見つかるのか?
あるいは、美術大学へ行って、キャンバスへ向かえば、図面に向かえばそれが見つかるのか?
こう、覚えておいていただこう。
芸術・文化「的なもの」のなかにいて、芸術や文化を知らない人は多い。
芸術・文化「的なもの」を知らずに、真に芸術的で文化的な人も多くいる。
この世では、多くの場合、見せかけと真実とは逆転するのである。
小綺麗な手で、美しい者は産めない。
あなたたちは、どちらを選ぶのか?
こう、覚えておいていただこう。
私たちは、目に見えないもののために生きる。
私たちは、闇のなかに、徹底的な孤独のなかに、自らを、賭ける。
またこう、覚えておいていただこう。
すべての人間の悲惨は、芸術と文化の欠如からくる。
民族間の争いも、環境破壊も、すべて「魂」の欠如からくる。
だから私たちが、芸術に生きるのは、この社会を変えるためである。
だから私たちが、文化に生きるのは、新しい人間をつくるためである。
あなた自身が、徹底的な闇のなかから、すべてを包みこむしかない。
あなた自身が、闇から光へと、何かを手渡してゆくしかない。
孤独であろうじゃないか。真の、「闇の器」たろうじゃないか。
砂漠をひとり歩む覚悟のない者は、本当には人を愛せないから。
私たちは、芸術も文化も未だ知らない、この社会ぜんぶのために捧げられる生け贄なのだ。
21世紀の今日、未だ人類が手にしたことのないものがある。
それが、真の意味での、芸術と文化ではないだろうか。
だから、今日のレッスンは以下のことに尽きる。
「闇の器になれ」。